2010年4月24日土曜日

シッダールタ-6

さぐり求めること

『シッダールタは言った。
「私がおん身に何の語るべきことがあろうか、おん僧よ。
おん身はあまりにさぐり求めすぎるとでも言うべきかもしれない。
さぐり求めるために見いだすに至らないのだとでも」

「いったいどうして?」とゴーヴィンダはたずねた。
「さぐり求めると」とシッダールタは言った。
「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。
また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、
一つの目標を持ち、目標にとりつかれているので、
何ものをも見いだすことができず、
何ものをも心の中に受け入れることができない、
ということになりやすい。

さぐり求めるとは、目標を持つことである。
これに反し、見いだすとは、
自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。

おん僧よ、おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。
おん身は目標を追い求めて、
目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」』
(ヘッセ「シッダールタ」新潮文庫)

彼は「探り求めること」の是非を正面から問いかけています。

ヨーガスートラは、真我独存と共に純粋観照者への道を示しています。
観照とは、それこそ自由であること、心を開いていること
そして目標を持たぬこと、から起こります。

汗水流して熱心に頑張ることは美しいかもしれませんが
懸命に探り求めているうちは、観照には至りません。

観には、観想、観察、そして観照があります。
それぞれの意味の違いを自ら体験することによって
観照の持つ大いなる力を理解されてください。

観想や観察には作為が伴いますが
観照は無為の領域に於いて起こります。

私がヨーガを特定の宗教と結び付けたくないのは
まさに宗教の要求する信仰が、この観照を妨げるからなのです。

信仰を捨てなければ悟れない、という釈迦の真意もそこにあります。
信仰無きヨーガの世界こそが、サマディへの道なのです。

「見るためには、
あなたは一切の権威や伝統や恐怖、
あるいは狡猾な言葉に満ちた思考から自由でなければならない。
真理はどこか遠くにあるのではなく、
あるがままの現実を見きわめることにある。
あるがままの己れの姿を曇りなく、
あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ることこそは、
一切の探求の始まりであり同時に終わりである。」
(「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版社)