2010年4月24日土曜日

シッダールタ-1


『すでにして彼は、
ことばの中のことばなる「オーム」を、声を出さずに口に発し、
吸う息とともに、声を出さずに自分の中に向かって言い、
吐く息とともに、声を出さずに自分の中から外に向かって言うことができた。
魂を集中し、明思する精神の輝きに額を包まれて。
すでにして彼は、自己の本性の内部に、破壊しがたく、
宇宙と一体なるアートマン(真我)を知ることができた。』
(新潮文庫より)

これは『シッダールタ』の2ページ目にでてくる記述です。
高校の頃、最初にこれを読んだとき、もう彼は卒業ではないかと思いました。
なんで修行に出る必要があるんだろうと、不思議に思ったものです。

禅で悟りのことを「見性」と言いますが
私は当時これを、「本性を見ること」と単純に解釈していました。
辞書(大辞林)などでは、
「修行によって表面的な心のあり方を克服し、
自分に本来備わっている仏の真理を見きわめること。」
と書いてありますし、「見性成仏」という言葉もあります。
こちらは、「禅宗で、見性して、悟りを開くこと。見性悟道。」という説明です。

また、「直指人心、見性成仏」という禅語は、
「教説や修行によることなく、座禅によってただちに自分の心の本性を見極め、
悟りを開いて仏と成ること。」という意味だそうです。

仮に、人間が本質的に仏性(=宇宙と一体なるアートマン・真我)を持ち、
それに気付くことで悟る、という発想によるならば
冒頭のシッダールタは、すでに悟りの境地に至っていると考えたわけです。

仏の定義も様々なので、
当然仏性についてもいろいろな捉え方がありますが
当時は、彼が出家する必要がどこにあるんだろうかと、
単純に疑問に思ったものでした。