2010年4月24日土曜日

シッダールタ-3


『いけにえをささげ、神々に呼びかけることは、すばらしかった。
しかし、それがすべてだったろうか。いけにえは幸福をもたらしたか。』
(新潮文庫より)

「自灯明、法灯明」という言葉があります。
これは
「自らを灯明とし自らを所依とし、法を灯明とし法を所依とせよ。」
という意味ですが、
もともとの出典は「大パリニッバーナ経」という原始仏典です。

釈迦が亡くなる前、
若いアーナンダは呆然自失して悲しみに震えていました。
しかし釈迦は次の様に語り掛けます。
(以下引用はすべて岩波文庫、中村元先生の訳より)

「アーナンダよ。
今でも、またわたしの死後にでも、
誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとし、
他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、
かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、
誰でも学ぼうと望む人々は。」と。
(「ブッダ最後の旅」より)

これに類する記述は、他の原始仏典にも幾つか見受けられます。

ダンマパタ(法句経)には、
「自己こそ自分の主である。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」
(「ブッダの真理の言葉、感興の言葉」より)

また最も古い経典といわれる「スッタニパータ」にも
「あまねく見る方よ。
わたしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。
わたしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」
というドータカに対して、釈迦は次の様に明言します。

「ドータカよ。
わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させえないであろう。
ただそなたが最上の真理を知るならば、
それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」
(「ブッダのことば」より)

また同じ経典には、次の様な衝撃的な内容も書かれています。

「ヴァッカリやバドラーヴタやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨てたように、
そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸に至るだろう。」
(「ブッダのことば」より)

このように釈迦は、
釈迦自身に対する礼拝を拒否するだけでなく
他に依存するような弱さや、そして信仰すらも否定することによって
厳しいまでの自己実現を主張していたのです。

ですから後世の仏教が、
ともすれば釈迦の意思に反していると思われてしまうのも
無理からぬことでしょう。