2010年4月23日金曜日

あるがままに


どんなに汗を流して頑張っても
アーサナや呼吸法などに固執しているようでは
サマディは遥か彼方の境地であり、到達する事などできないでしょう。

マントラやムドラー、集中法や観想法など
小手先の所作が多ければ多いほど、余計な作為にまみれ
正しい<瞑想>にはなりません。
それらは、本来のゴール(サマディ)から
かけ離れたものであることを知るべきです。

伝統や真伝という言葉の陰で、
ヨーガの技法が形式に囚われたり、
ただの観想遊戯に陥ってしまっては
ヨーガスートラの説くサマディなどそれこそ夢のまた夢です。

真我が有形であるならば、作為的な所作もありえますが
真我は有形ではなく、無形なのです。
従ってサマディへのアプローチも無形でなければなりません。

”無形を以って無形に対する”

ヨーガスートラは、まさにそれを要求しているのです。

ですから、形骸化し、無用な作為にまみれたヨーガでは
存在の深みに触れることなど到底出来ません。
ヨーガがその真価を明らかにするためにも
今、その真実が問われるべきだと思います。

「瞑想してはならない―在りなさい!
あなたは在ると考えてはならない―在りなさい!
在ることについて考えてはならない―あなたは在る!」
『あるがままに』 ナチュラルスピリット