2010年4月23日金曜日

信仰心


クンダリーニJPでは
ヨーガに信仰を持ち込むことを好ましく思いません。
なぜなら盲目的信仰に固執することが
サマディへの道を閉ざすことに繋がると考えるからです。

この点については
最古の仏典「スッタニパータ」に於ける釈迦と同じ見解です。

『ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。』
(スッタニパータ 1146、岩波文庫 中村元訳)

ところで同経典では
『あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝します。
シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。』
と願うドータカに対して、釈迦は次のように語っています。

『わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。
ただそなたが最上の真理を知るならば、
それによってそなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。』

つまり、特定の神(仏)に対する盲目的信仰はもちろん
師に対する盲従もまた好ましいものではないと言っているのです。

仏陀、イエス、老子、孔子等
人類の宝とも言える偉大な賢人・聖人に対してすら
その言を無批判に受け入れ、その姿をひたすら礼拝するというのは
必ずしも賢明な道ではないのではないだろうか?ということです。

『神とは何ですか?』
という質問に対して、クリシュナムルティは 

『どうやって見出すつもりだろう?
誰か他人の情報を受け入れるつもりだろうか?
それとも神とは何かを自分で見出そうとしているのだろうか?
質問をすることは容易だが、しかし真理を体験するには
大いなる英知、大いなる探究が必要になる。

だから第一の質問は、
君は他人が神について言うことを受け入れようとしているのだろうか、
ということである。

それが誰かは問題ではない。
クリシュナであれ、仏陀であれ、キリストであれ。
なぜなら彼らはみなまちがっているかもしれないからである
そしてそのように、君の特定のグルもまちがっているかもしれないのだ。

そう、何が真理かを見出すには、
君の精神は見出すべく自由でなければならない。
つまりそれは、

精神がむやみに受け入れたり信じたりしないことを意味している。
私は君に真理の記述を伝えることはできるが、
しかしそれは君自身による真理の体験と同じではないだろう。

すべての聖典は神とは何かを述べているが、
しかしその記述は神ではない。
『神』という言葉は神ではないのだ。違うだろうか。』
クリシュナムルティ「花のように生きる」

道元もまた、この点について「正法眼蔵随聞記」で次のように語っています。

『また昔の人の言葉であっても、それに固執してはいけない。
これも、もしかしたら正しくないのではなかろうか、
信頼するにつけてもなお念を入れて考えて、
それよりすぐれた点があれば順次すぐれた方に従うべきである。』
(水野弥穂子訳)

神仏への盲目的信仰や先師への盲従によらず
自らの体験と深慮を通して、先師の気づきを検証してゆく姿勢こそ
あるべき真理へのアプローチだと思います。

『道を得ることは、まちがいなく身をもって得るのである。
だからこそ坐禅を専一にしなければならないと思われるのである。』
(「正法眼蔵随聞記」水野弥穂子訳)