2010年5月18日火曜日

正法眼蔵随聞記

「ある日、教えて言われてた。
わたしが宋にいた時のこと、坐禅の道場で古人の語録を読んでいた。
その時、ある、四川省出身の僧で道心あつい人であったが
この人がわたしにたずねて言った。
『語録を見てなんの役に立つのか。』
わたしは言った。『くにに帰って人を導くためだ。』
その僧が言った。『それが何の役に立つのか。』
わたしは言った。『衆生に利益を与えるためである。』
僧はさらに言った。『結局のところ何の役に立つのか。』」
「正法眼蔵随聞記」ちくま学芸文庫

「畢竟じて何の用ぞ」

この正法眼蔵随聞記は
弟子の懐弉がまとめた道元の説法集として知られています。
道元の若い頃の様子が伺えるところは「宝慶記」と同じですが
結構丁寧に書かれていますので、参考になると思います。

道元はこの僧に「畢竟じて何の用ぞ」と問われ
いよいよ返答の言葉を失います。
後に「是れ真実の道理なり」として坐禅に徹しようと、
心境を新たにするわけですが
私は、この「古人の語録」なるものをさまざまに読み替えて思索してみました。

坐禅、アーサナ、瞑想、ヨーガ、断食etc
「結局のところ何の役に立つのか?」と。

汗をかいて気持ちがよければいいじゃないか、とか
リラックスする為に瞑想しているだけ、とか
身体が柔らかくなるし、ダイエットにいいから、とか。。。

ヨーガの楽しみ方に幅があってもいいとは思いますが
命懸けでヨーガの技術を開発した先師達は
例えば、後世の人々のダイエットのために尽力したわけではありません。
「作り手」と「使い手」の意志がマッチしていないように思うのは
私だけでしょうか。
ヨーガの全体像を知るには、ヨーガスートラだけでなく
古ウパニシャッドを研究する必要があります。
そうすれば古の先師達が何を目指していたのかが明確にわかります。

「畢竟じて何の用ぞ」

悟り、サマディ、ニルヴァーナなどについても同じです。
結局のところ何の役に立つのか?と自問すべきだと思います。
それは「何のために生きているのか?」の解答にもなることでしょう。