2010年5月11日火曜日

心の斎み~荘子

『回曰く「敢えて心の斎(ものい)みを問う」と。
仲尼曰く「若は志を一にせよ。
之を聴くに耳を以てする無くして之を聴くに心を以(も)てせよ。
之を聴くに心を以てする無くして之を聴くに気を以てせよ。
聴くことは耳に止まり、心は符(し)るに止まる。
気なるものは虚しくして物を待(うけい)るるものなり。
唯だ道は虚しきに集まる。虚しきこそ心の斎みなれ。」』
「荘子内編」

潔斎という言葉があります。

「神仏に仕えるため、酒肉を避け
けがれた物に触れず、心身を清らかにしておくこと。ものいみ。」
大辞林によればこのような意味になりますが
仲尼(孔子)に「斎みせよ」と言われた回(顔回)も同様に解釈をし、
もとより酒肉を避けている旨を告げます。

「回の家は貧し。惟(もっぱ)ら酒を飲まず。」

これに対して孔子は次のように応えます。
「是れ祭祀の斎みにして、心の斎みには非らざるなり」

そして冒頭のやり取りに続くわけですが
30年前にこの荘子内編を読んだ時に
私は、仏典のサンユッタニカーヤを思い出しました。

「水を必要としない沐浴とは、苦行と清らかな行いとである」(中村元訳)

古来、世界各地ではいわゆる禊が
潔斎の重要なアイテムとして行なわれてきました。
この「禊」ですが、大辞林では次のように説明されています。
「海や川の水で体を清め、罪や穢(けが)れを洗い流すこと」

私も毎日の日課としての水行、そして
冬には山に篭り滝行などをしていましたが
それは、この大辞林的な解釈によるものでした。

また、水だけでなく火でも「祓い」を行なおうということで
火生三昧(裸足で燃えさかる火の上を歩く修行)などにも励みました。
確かに生死の境を彷徨うような荒行にも
それなりに意味があるとは想いますが
実際に取り組んだ結論としては、あまりお奨めできません。
なぜなら、身体への負担が大きすぎますし
また原理的に必ずしも有効ではないからです。

きちんと説明しますとそれこそ一日かかるような話なので
とてもメルマガでは書けませんが
そもそも穢れの考え方として、
大別すると顕(有形的)と幽(無形的)の2種類があり
これらは質的に全く異なるものなのです。
そして祓い(浄化)が難しいのは、明らかに後者であり
単に水をかぶる事などではとても解決できません。
ですから荘子も心斎の重要性を「虚」のレベルで語っているわけです。
ヨーガに於いてもウパニシャッドを解釈する時に
これと同じ課題に何回も直面します。
当初ウパニシャッドだけを読んだ時
宇宙の最高原理たるブラフマンとの合一&融合の段について
多くの疑問点が湧き上がり、よく理解できませんでしたが
古代中国&日本の叡智を、慎重につきあわせながら
ウパニシャッドの記述を精査した処、はじめて
なるほど!と膝を打つことができました。
その時、潔斎、心斎と、さまざまな段階での「斎み」が
どのような意味を持ち、如何に大切なのかをようやく理解することができました。