2010年6月14日月曜日

志気と志操

『志というものが単なる観念や空想ではなくて
それが物事を成してゆく現実のエネルギーである時は志気という。
本当の志気は客気ではなくて、
常に変わらざるものでなければならない。
いかなる場合にも志を変えないことを志操とか節操という。
志操とか節操が出来てくると、物に動じなくなる。
つまり物の誘惑や脅威に動かされなくなる。』
「知命と立命」安岡正篤著 プレジデント社

この一文は王陽明に関する解説の冒頭に書かれています。
王陽明といえば、明の時代に
知行合一で知られる陽明学をおこした人物として知られていますが、
系譜的には孟子の流れを汲むものです。

私的には、堅苦しい儒教系よりも
自然無為に生きる老荘系の思想に惹かれますが
「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」
という王陽明の言葉には思わず頷いてしまいます。
さて、志気と志操ですが
それが天命に即したものであれば最上だと思います。
ただこの「天命を知る」というのが簡単ではありません。
孔子ですら「五十にして天命を知る」というくらいですから。
なぜ難しいかというと
「三十にして立つ」「四十にして惑わず」
を経なければならないからです。

つまり自立し、不惑となって始めて
天命を知る前提条件が整うのです。
もし自立していませんと、
志は「単なる観念や空想」に過ぎず
現実にはなかなか結びつきません。

ですからまず「自立」して
物事を成してゆくための現実のエネルギー(志気)を得ることが
志を実現するベースとなります。
そして「四十にして惑わず」つまり不惑に至れば
当然のことながら「いかなる場合にも志を変えない」ということになるので
「志操とか節操」が出来「物に動じなくなる」わけです。

「知は行の始めにして、行は知の成なり」

知行合一も言葉の解釈だけなら難儀しませんが
問題は「知」の真義だと思います。
この「知」をどれだけ深く捉えることが出来るかです。

王陽明の「致良知」も結構なことですが
人間の本性や道徳知を超えた「天知(神知)」こそが
「良知」の極致だと、私は考えます。
そして、
この「天知」を覚ることこそが
まさに「天命を知る」ことなのだと思います。