2010年6月14日月曜日

沈黙

『何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。

瞑想は新たなるものの不断の開示である。
新たなるものは反復的な過去を超越したものである。
瞑想とはこの反復に終止符を打つことである。

瞑想がもたらす死は、新たなるものの永生である。
新たなるものは思考の領域にはなく、
瞑想とは思考の沈黙である。 

瞑想とは何かを成就することでも、
まぼろしを見ることでもなく、感覚を刺激することでもない。
それは抑える間もなく勢いよく流れて、
氾濫する川のようなものである。

瞑想は音のない音楽であり、
決して使い馴らしたりできるものではない。
それはそもそものはじめから
観察者の存在しない沈黙のことである。』
「クリシュナムルティの瞑想録」

ヨーガでは「集中」は妨げにしかなりません。
なぜなら集中は束縛を強めるからです。
私は練習に際して、しばしば「観察」を求めますが
それは「観照」に至るプロセスの一つにすぎません。
観察は集中と比べれば、作為が少ないといえますが
それらに固執し、留まっていますとヨーガは進歩しません。
ヨーガのサマディは「無為」の所産なのですから
作為はなくならなければならないのです。

集中は論外として、観察も
ビギナーの内だけしか役立たないのですから
それに拘らず、観照へと進むように心掛けてください。
「止観」という言葉があります。
この「観」を観察の事だと解釈している人たちが少なくないのですが
それは明らかに間違いです。(顕教ヨーガや禅の場合)

「止」とはシャマタつまり「心の作用の止滅」を意味します。
心の働きが止滅している状態では、
観察などできるはずがないのです。
ですから「観(ヴィバシャナ)」は観照でなければならないわけです。
観照なくして純粋観照者の出現もありえません。
つまり真我を観照することができないということです。

「自然無為」(老子)

観察に固執することもまた、
集中と同じくヨーガの進歩を阻害するのです。