2010年6月15日火曜日

ヨーガとシヴァ神

『シヴァ、ガナパティ、ブラフマーのような
その他の神々が人間の観点から存在します。
(中略)
しかし至高の絶対者、真我の観点からは
これらの神々はすべて幻影であり、
一つの実在の中に合一されねばなりません。』
ラーマナ・マハーリシ「不滅の意識」
クンダリーニJPでは以前より
ヨーガを宗教(信仰)と切り離してご提案してきました。
それは本来ヨーガと直接リンクしていないという理由と
恣意的に関連付けるのは好ましくないという判断からでした。
ですので、北千住ジムにはシヴァ神の像も神々の絵もなく
礼拝や読経、そして神名のチャンティングなど一切ありませんでした。
私自身が無信仰というのが理由のひとつでもありますが
本当は、ヨーガに信仰をリンクさせる事自体が
本来好ましくないと考えているためです。

釈迦や達磨が仏像や神像の前で
読経や、マントラや神名のチャンティングをしたでしょうか。
読経、礼拝、信仰に熱心に励むことで見性(悟り)に至る
と説いた禅の高僧が歴史上いたでしょうか。

道元も「正法眼蔵弁道話」で
礼拝、焼香、念仏、看経等を不用とし
「祇管に打座して身心脱落することを得よ」と述べています。

この道元の「身心脱落」は
まさにヨーガスートラの目指す境地であり、その意図するところを
極めて明確にかつ具体的に表現した素晴らしい句だといえます。
ここで道元は
心よりも前に、身の脱落があることを明示しています。
つまり、制感までで身の脱落を達成して肉体感覚の消失を得
然る後に、凝念以降で心の作用の止滅をはかるという
ヨーガスートラそのものの階梯です。

その時、
礼拝、焼香、念仏、看経等は邪魔になりこそすれ、
何ら助けにはなりません。
ですから、道元はその点について
「正法眼蔵」の最初に「弁道話」を置き
上記の通り「不用」だと明言しているわけです。
かねてより禅では
「仏に逢うては仏を殺し、祖師に逢うては祖師を殺し」といいます。

この言葉は
「無門関」の冒頭にある「趙州の狗子」にもありますので
ご存知の方も多いと思いますが
私はヨーガも同じスタンスでよいと考えています。
ハタ・ヨーガ・プラディーピガー(1-5~8)に
「聖なる祖師シヴァ神」と出ているから
ハタ・ヨーガをやる以上シヴァ神を祭るべき、
というのもその方の自由なので、
正面から否定する気はありませんが
シヴァの解釈もブラフマンと同じく時代等によって様々ですので
深く勉強されるといろいろなことがわかってきます。

もっともハタ・ヨーガ・プラディーピガーは
かなり難易度の高い技法書なので
そこに書かれている全ての行法をその通りに実行されるのは
ほとんど不可能に近いかもしれません。
でも、内容的には参考になる点も多々ありますので
ヨーガを学ばれる方々は一度は読まれたほうがよいでしょう。
ところでラーマナ・マハーリシはインドに住みながら
上記のようにかなり過激な発言をしています。
でもこれはクリシュナムルティにもある部分共通するスタンスなのです。

『神を見出したりはできない。
神に至る道などはないのである。
人は様々な道、様々な宗教、様々な信念、あるいは
永続的な祝福を見出す助けになってくれると思われる救世主や
導師など実に様々なものを作り出してきた。

しかし悲しいことに、探究はやがて、
幻想や、精神が既知なるものを用いて投影し、
手直しを加えて生み出した幻像にと行きつくのである。』
「クリシュナムルティの瞑想録」

幻想は、どこまでいっても幻想に過ぎません。
そこには宗教的妄想と自己催眠に陥るリスクもあります。
ヨーガを宗教と深く結びつけ、かつ信仰を強いることは
ヨーガスートラの理想する世界に逆行するといってもよいでしょう。