2010年6月6日日曜日

学んで思わざれば

『物を評するは己を告白することだ。
深い人は何でもないことを深く解釈し
詰まらぬ人間は深いことを浅く解釈する。
心暗ければ世暗し、心明るければ世明るし
心深ければ世深し、心浅ければ世浅し。』
「安岡正篤一日一言」致知出版社

例えばヨーガスートラやウパニシャッドについて語るとき
どのような解釈ができるかによって、
その人の理解の深さがわかります。
これはヨーガに限らず、全てについて言えます。
また単なる言葉遊びなのかどうかは
その理解が己の体験に基づいているか否かによって
判断することができます。
真に理解の深い方は、
皆が見過ごしてしまう些細なことであっても
そこにさまざまな真理を見出すわけです。

坐井観天、という言葉があります。
井戸の底に坐って天を仰いでも、
広大な蒼天の僅かな一角しか見えません。
それが全てだと錯覚してしまうと、
人間の成長も期待できないでしょう。
しばしば申し上げているように、
囚われなく、自由に、幅広く学ぶことで
全体図を知り、己の現在位置を知ることは
坐井観天とならない為の、いわば予防処置でもあるのです。

「子曰、學而不思則罔、思而不學則殆」
子曰、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。
思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。

学んでも考えなければ正しく知ることは出来ない。
考えても学ばなければ真の理解には至らない。

知識が智慧となる為には、思索が不可欠です。
情報を沢山収集し、知識の量を増やしても
それだけでは役に立ちません。
それらを分類し、解析し、精査することで
確かなものと不確かなものに分け、
重要度別に整理する必要があります。
そして自らの内で、咀嚼し消化することで
単なる知識が、徐々に智慧へと変わってゆきます。
その意味で、知識と思索とは
不可分の関係にあるといってよいでしょう。