2010年7月28日水曜日

経験の刻印

『おおらかな天真らんまんさと無量の広がりは瞑想の開花である。
広がりのないところに天真らんまんさは生まれない。
天真らんまんであることは未熟さとは無縁である。
肉体的には成熟しても、
精神が経験の無数の刻印から自由でないかぎりは、
愛とともに訪れる広大な空間は生まれない。
天真らんまんであることを妨げるのは経験の刻印である。
経験が加える絶え間ない圧力から精神を自由にすることこそは
瞑想に他ならない。』
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

ヨーガも禅も宗教と密着し、信仰を要求するようになりますと
その本来の輝きが失われてしまうように感じられてなりません。
なぜなら、釈迦も言うように、信仰はサマディを妨げるからです。

信仰は、時として心の支えにもなります。
ですから信仰を持つ事を頭から否定するつもりはありません。
ですが瞑想とは、本来、心の置かれた状態を閉ざすことであり
信仰と共存することはできないのです。

ヨーガスートラで言えば
「心の作用が止滅したとき」には、
言うまでもなく信仰心を持ち続けることは出来ません。
なぜなら、信仰心を保持し続けることは
心の作用の止滅に逆行するからです。

精神を自由にする、とは
とらわれを無くすことだと言い換えることができます。
ですがそこには、善悪も美醜もありません。
サマディの前段階として「心の作用の止滅」が起これば
煩悩も、信仰心も一切合切消えてしまうからです。

『瞑想とは、静けさのなかからわきおこる はたらきです』
「瞑想」クリシュナムルティ