2010年7月16日金曜日

恐怖と約束

「われわれは途方に暮れ、不安なままでいることを恐れるあまり、
宗教、政治あるいは社会的な領域で
われわれに天国を約束する人間たちの後を追い求める。
それゆえ、かれらは、実際には恐怖をつのらせ、
われわれを恐怖でがんじがらめにしているのだ。」
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

白隠禅師の発心(仏となり最高の悟りに達しようという決心)の因が
子供心に聞いた地獄に対する恐怖にあったのは有名な話です。
白隠は11歳の時に母に連れられ昌原寺で地獄絵の法話を聞きました。
子供にとって始めて聞く地獄の世界は、強烈な恐怖となり
以来「どうすれば地獄に墜ちないか」を考え悩むようになりました。
そして14歳の時、松蔭寺の単嶺和尚について出家したのです。

釈迦は、
生・老・病・死の四苦から如何にして解放されるかを説きましたが
地獄話で人々を怖がらせ「恐怖でがんじがらめ」にはしませんでした。
宗教には昔から、往々にしてこのような傾向が散見されますが
私には、倫理的のみならず、技術的にも好ましく思えません。
なぜならそのような脅しはサマディを遅らせることになると思うからです。

そもそもサマディとは、浄化と解放の結果到達する境地です。
恐怖を植えつける事は、布教活動には役立つかもしれませんが
このような脅しによって心を不安にさせ、恐れに苛ませるのは
明らかにサマディ(見性)への妨げになります。
よって、クリシュナムルティの言うように
恐怖と約束をセットメニューにするのは好ましくないと思います。