2010年9月24日金曜日

瞑想の純粋さ

「瞑想において大切なことは、精神と心の質である。
肝要なことは何かを成就することでも、
あるいはめざす何者かになることでもなく、
天真らんまんでしなやかな精神のあり方である。

否定を通じて肯定的な状態が現われる。
ただいたずらに経験を蓄積し、経験によって生きていては、
瞑想の純粋さは生まれない。

瞑想は目的のための手段ではない。
瞑想は手段であり同時に目的である。
精神は経験によっては決して天真らんまんたりえない。
経験を否定することによってはじめて、
思考によっては生み出すことのできない天真なる状態が現われる。

思考は決して天真たりえない。
瞑想は思考に終止符を打つことであるが、
それは瞑想者によるのではない。
なぜならは、瞑想者と瞑想とは不可分の全体なのである。
そしてもしも瞑想がなければ、
人は光と色の大いなる美の世界にいながら、
それが見えない盲人のようなものである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』
巷には瞑想法といわれるものが氾濫しています。
でもそのほとんどは単なるリラックスの為のものであったり
宗教目的や、想像を逞しくするような観想法ではないでしょうか。
ヨーガスートラは「心の作用の止滅」を説きます。
これは、クリシュナムルティの
「瞑想は思考に終止符を打つこと」に通ずるものですが、
いずれにしても
集中を求めたり何らかのイメージを膨らませる「妄想法」ではありません。
ヨーガに於いて、集中は邪魔ものだといえますが
観察もまた、厳密には、引き算してゆくべき対象です。
確かに観照に至る過程では、観察は重要な意味を持ちますが
いつまでも観察に囚われていたら、純粋観照者など出現しません。
止観という言葉があります。
これは止(シャマタ)と観(ヴィバーシャナ)に分かれます。
止とは、心の作用の止滅を意味します。
そして観(観照)とは、止の先に起こる境地なのです。
ですから止なくして、観はないといってよいでしょう。

もしも止ができないで、観だけを試みるならば
それは、心の作用の止滅を伴いませんので
ヨーガスートラの求める瞑想になりえません。
この点について誤解をしますと、サマディには到達できないでしょう。