2010年9月18日土曜日

見処逢源と孟子離婁篇

禅の十牛図「見牛」の序に
「声より得入すれば、見処源に逢う」というのがあります。
この中の「逢源」は元々、孟子の離婁篇にある言葉ですが
孟子は、そこで次のように示唆しています。

"道を求めるものは、自得すべきであり
自得した道であるからこそ、それを通して安定と智慧を得られる。
また、さらにそれを深めることができれば、
その源に逢う事ができるであろう。"

以前書きましたように
瞑想を通して「覚」を真摯に積み重ね
その経験的事実を論理的に理解してはじめて「悟」となり
「安定的な再現性」を持てるようになります。
学問とは、悟を実現する為に必要な要素のひとつなのです。
だから、先賢の叡智を学ぶわけです。

学問と瞑想は、道を求める際の両輪でなければなりません。
学問だけで喜んでいたら、単なる言葉遊びで終わってしまいますし
瞑想だけでは、その体験を理解することができません。
いずれにせよ「覚の安定的な再現性」に至ることは困難です。
それでは人を指導することはできないでしょう。

もし両輪が揃うならば
禅の十牛図なども実感として頷きながら読むことができます。
なぜなら、学問的な理解と瞑想の体験の両方が揃っているからです。
読んでいてわからないところがあれば、
その場で瞑想すればいいのです。
孟子の言う「自得」とは
他人の知識や経験を振りかざすのではなく
「自ら得よ」という意味です。
借り物を振り回すようでは、
自己顕示欲が満たされるだけで、虚しいだけです。

孔子も
「知るを知るとなし、知らずを知らずと為す。これ知るなり」
と言っています。
もし借り物ならば、引用は引用先を明示し、
他人に聞いたことはそれを付記し
また、自分の発見は自分で見つけた、と言うのが本当だと思います。
さもなくば、いつまでも「自得」にはならないでしょう。
これは「見牛」を妨げる理由の一つでもあります。

「何かを知るためには、あなたもそれにならなければなりません。
あなた自身もその経験を持たなければなりません。」
「自我の終焉」クリシュナムルティ 篠崎書林刊