2010年9月22日水曜日

霊的と呼ばれるものでない

「美と愛を持たなければ、
あなたはあの不可測なるものに出会うことはできない。

遍歴僧や聖者たちの生き方をつぶさに観察してみれば
この美と愛が彼らからほど遠いことに気づかれるであろう。

彼らはそれを口にするかもしれないが
何と言っても
彼らは厳格な規律励行者であって
自らの統制と要求において極端である。
そういうわけで、彼らは
サフラン色や黒い僧衣をまとい緋の衣や帽子をつけてはいても
本質的にはいずれも非常に世俗的なのである。

僧であることは一般の職業と同様、一種の職業であり
霊的と呼ばれるものでないことは明らかである。

なかには実業家と呼ぶ方がふさわしい者もいて
霊性のかけらもない者も見受けられるありさまである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

かつてヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」や
「知と愛(ナルチスとゴルトムント)」を読んだとき
戒律や清貧に生きたゴーヴィンダやナルチスではなく
なぜ、ハチャメチャなシッダールタやゴルトムントが悟れたのか、と
不思議に思ったものでした。

結局、他人の決めた特定の価値観にがんじがらめになっていたのでは
真の自由、つまりサマディに到ることはできないのではないかと気づきました。

どんなに形が整って見栄えが良くとも
盆栽は、所詮盆栽に過ぎません。

ゼフィレッリ監督の「ブラザーサン&シスタームーン」という映画があります。
主題歌はドノバンで、内容的にもとても美しい映画です。

ボロボロの布を纏ったフランチェスコが神聖に目覚め
最後に、弟子たちを引き連れて、バチカンへ行く話です。

故郷で迫害を受けた彼らは、法王に
自らの信仰の在り方が、正しいか、それとも誤っているか、と問いかけますが
そこで映画は、驚くような結末へと展開してゆきます。

彼の言葉にいたく心を動かされた法王は、大聖堂の広間で
茫然としながら、指を天に向かって差し伸べ
しばし、眼を大きく見開いたまま、立ち尽くします。
そして、フランチェスコを面前に呼び戻します。

法王は、金襴の法衣を脱ぎ、純白の衣のまま壇を降りて
フランチェスコの手を取り、胸元でしっかりと握り締め
静かに語りかけます。

「貴方たちに会って、私は喜びと共に悲しみを感じている。
随分昔だが、はじめて聖職についた頃、私も皆と同じ気持だった。
だが、時が経つにつれて、いつしか熱意も薄れ
教会政治に忙殺されるようになった。
私達は富や権力の厚い殻をかぶっている。
貴方たちの清貧さに、私は自らを恥じる。。。。」

さらに法王は
「神の宿りは、その手に、そしてその足に」と祝福を与えながら
なんと、フランチェスコの足元に跪き
泥に汚れた裸足の甲に口づけをします。

最初にフランチェスコの言葉を聴いた時の
愕然とした法王の表情がとても印象的でした。
法王ですら、伝統ある大組織の歯車のひとつに過ぎないかのような
ある種の哀しさが伝わってきました。

私はキリスト教徒ではありませんが
この作品には何度も心を打たれました。
一見の価値あり、だと思います。

「ブラザーサン&シスタームーン
その声はめったに私に届かない
自分の悩みだけに、心を奪われているから
兄弟である風よ、姉妹である空の精よ
私の眼を開いておくれ
清く正しい心の眼を
私を包む栄光が眼に映るように」ドノバン

ところで先日、ある大病院の前を通りかかったときに
真っ白いロールスロイスが正面玄関に横付けされました。
つばのある帽子をかぶった制服姿の白手袋の運転手が、恭しくドアを開けるので
一体どんな人が降りてくるんだろうと思って見ていたら
なんと年配のお坊さんでした。。。

京都の某高僧は、夜になると鬘をつけて祇園へ遊びに行くそうですが
上求菩提、下化衆生は口先だけですか?と聞いてみたくなります。