2010年9月24日金曜日

真理はどこか遠くにあるのではない

「何も教えられてはいない。
あなた自身が自分の目で見たのである。
ひたすら見ることがあなたに示したのである。
言うなれば、そのように見ること自体があなたの師なのである。
見るも見ないもあなた自身にかかっているのであって、
他の何人もそれをあなたに強いることはできない。
しかし、もし報いを望んだり、罰を受けるのを恐れて見るというのであれば
そうした動機が見ることを妨げる。
見るためには、あなたは一切の権威や伝統や恐怖、
あるいは狡猾な言葉に満ちた思考から自由でなければならない。
真理はどこか遠くにあるのではなく、
あるがままの現実を見きわめることにある。
あるがままの己れの姿を曇りなく、
あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ることこそは、
一切の探究の始まりであり同時に終わりである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』平河出版

ラーマナ・マハーリシは、かつて
「私は誰か?」という問いの大切さについて語りました。
上記のクリシュナムルティの言葉は
まさしくその答えに至る為の要件といってよいでしょう。

「あるがままの己れの姿を曇りなく、 
あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ること」
これについては
ヘッセも「シッダールタ」で次のように著しています。

「静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、
願いを持たず 判断を持たず、意見を持たず
聞き入ること」(新潮文庫)

まさに、ひと言一言が心に染み渡る至言です。
よく皆さんに、これこそ「観照への極意」だと申し上げていますが
これらは真の瞑想の要件として、
心に置いておくべき言葉だと思います。
瞑想とは、単なる想念遊戯ではありません。
先賢の智慧を学びながら、より深みへと達することが望まれます。

いつも思うのですが、
言葉の使い方は異なれども真理に到達した方々の言には、
大変似通った志と風格を感じます。

安岡正篤先生に言わせれば
「達人のいうこと、真理を学んだ人のいうことは
古今東西、みな一如である。」
ということになるのでしょうが。(「知命と立命」より)