2010年9月25日土曜日

真理に至る道などは存在しない

「ただひとりあるとは、
どんな宗教や国家、いかなる信念やドグマにも属さない、
アウトサイダーたることである。

このような単独性こそが、
人間の愚行によっては決して触れられたことのない、
天真さに出会うのである。
世の中の喧燥のただなかにありながら、
決してそれに流されることなく生きられるのは、
天真な心である。

それはどんな衣装もまとっていない。
何らかの決まった道をたどって、
その結果善性が開花するというようなことはない。

なぜならば、
真理に至る道などは存在しないからである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』

スッタニパータに「犀の角」という一連の句があります。

「出家者でありながら
なお不満の念をいだいている人々がいる。
また家に住まう在家者でも同様である。
だから他人の子女にかかわること少なく、
犀の角のようにただ独り歩め。」
『ブッダのことば』岩波文庫

スッタニパータでは、このように
「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉が
なんと41回も、様々な内容で語られます。

この「犀の角のようにただ独り歩め」の解釈ですが
たとえば、ヒマラヤに引き篭もって誰にも会わず
生涯孤独を貫けとかいう意味ではありません。

友を選び、学び合い、啓発しあって道を歩んでゆくようにと
この経典で、釈迦は勧めています。

「学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。
いろいろと為になることがらを知り疑惑を除き去って、
犀の角のようにただ独り歩め。」

「慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを
時に応じて修め世間すべてに背くことなく、
犀の角のようにただ独り歩め。」

つまり「犀の角のようにただ独り歩め」とは
己の心の持ち方、生き方のスタンスを説いているのです。

中村先生によれば
「犀の角のごとく というのは、
犀の角が一つしかないように、
求道者は他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく
ただひとりでも、
自分の確信にしたがって暮らすようにせよ、の意である。」

学生の頃、禅の師に「牛の鼻カン」という話を聞きました。
鼻カンというのは、鼻につける輪のことだそうです。
それに縄紐などを結んで引きずり回すわけです。
師は
「自分の鼻で呼吸をし、自分の足で歩け。
自らの本性に目覚めて、真の自由を得なさい。
人間には(牛のような)鼻カンなど無いほうがいい。」
と、いつも仰っていました。
どんな「衣装」もまとうことなく、
犀の角の如く本来の面目に従って、
天真な心で生きたいものです。
「真理に至る道などは存在しない」のですから。