2010年9月29日水曜日

瞑想と祈り

「瞑想は祈りとは無縁である。
祈り、祈願は自己憐憫から生まれる。

あなたが祈るのは何か困ったとき、悲しいときであり、
自分が幸福で楽しいときには、祈願などはしない。

人間に深く根づいたこの自己憐憫は、
分離の根本要因である。

分離したもの、あるいは自らを他から分離したものと考えて
絶えず分離していないものとの一体化を求めているもの
そこからはさらに多くの対立と苦痛が生まれるだけである。

このような混乱を目のあたりにして、
人は天に救いを求め、妻は夫に哀願し、
あるいはまた、精神が神聖とみなすものに加護を求めたりする。

そのような訴えには、答えが返ってくるかもしれない。
しかしその答えは分離の淵から返ってくる自己憐憫のこだまである。
言葉や祈願を復唱するのは
自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。

思考の孤立性は常に既知なるものの領域にあり、
祈りに対する答えは既知なるものの反応である。

瞑想はそうしたもののはるか向こうにあり、
その領域には思考は入れない。

その中では何の分離もなく、それゆえ
私という意識を成り立たせる個別性は消滅する。

瞑想は開かれた場所にあり、
そこには何の秘密も介在していない。

あらゆるものが裸形で、はっきりと姿を見せており、
そのような明澄さの中ではじめて、
愛とその美しさが現実のものとなるのである。」
『クリシュナムルティの瞑想録』
20年近く前になりますが
祖父に連れられて商売繁盛で有名な社に行きました。
私は信仰心を持ち合わせておりませんので
一礼をしただけで、合掌もせずに
ただ祖父の横に立っていただけでした。

「佛神は貴し佛神をたのまず」
宮本武蔵の「独行道」の一文です。
命のやり取りを繰り返した武蔵の最後の境地が
どのようなものだったかが伺えます。

「祈り」それはとても美しい言葉ですが
もしも欲得や自己憐憫に起因して行なわれるものならば
愛も輝きも失われることでしょう。