2010年9月17日金曜日

自然に起こるもの

「瞑想は決して準備したうえでとりかかれるものではない。
それは行なう者が追い求めたりせずに
自然に起こるものでなければならない。
あなたがそれを求めたり、
あるいはその方法をあれこれ思案したりすれば
その方法自体がさらにあなたを制約するだけではなく
あなたを縛っている現在の制約を
いたずらに強固にしてしまうことであろう。」
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版

昔この本を読んだ時
「自然に起こるものでなければならない」
というところがよくわかりませんでした。

「努力」の意味についても、随分悩みました。
朝早く起きて、まじめに頑張れば頑張るほど
理想から遠ざかってゆくような気がして気落ちしたものです。
そしてある朝、半分諦めながら気を楽にしてゆったりと坐った時のことです。
ふっと何か吹っ切れたかのように身の脱落が起こりました。

その後、試行錯誤を繰り返しようやく
安定的にサマディを体験できるようになった時
「なるほど!そういうことか」と気づきましたが
そこに至る道のりは簡単ではありませんでした。

「覚(見性)」は「悟(体験的事実を論理的に理解すること)」によって
はじめて再現性が高まるわけですから
ともかく「質」の伴った「量」を積んでゆく必要があったわけです。

なにが障壁だったのか?
どうすれば解決できるのか?
それがわからないと単発の「覚」で終わってしまいます。

瞑想とは、必死に頑張って行うものではないのです。
冬山に篭り、命懸けで修行する、などとは無縁な世界だったのです。
なぜなら瞑想とは、無為にして自然に起こるものだからです。
どこかに出かけて、特別な環境でなければサマディに入れない、とか
何時間も坐らないとサマディに入れない、とか、、、
私には、とても理解できません。
自分の部屋で、5〜10分以内になぜ、すっとサマディに入れないのかな?
と、疑問に思ってしまいます。
覚と悟を重ねて、再現性を得られたのなら難しくないはずです。
サマディとは、そういうものなのですから。