2010年9月18日土曜日

集中と瞑想

「集中と瞑想とを区別しましょう。
今あなたが瞑想について話すとき、
あなたたちのほとんどがいうのは、
たんに集中のこつを学ぶという意味です。
ですが、集中は瞑想の喜びにつながりません。

瞑想と呼ばれるものにおいて、
何が起きるのかを、考慮してください
それ[瞑想]はたんに、精神を
特定の対象や観念に集中させようと訓練する過程です。

あなたが意図的に選択したものを除いて、
他のすべての思考やイメージを、精神から排除します。
あなたは、その一つの観念、映像、言葉に、
精神を集中させようとします。

今それはたんに、思考の縮小、思考の制限です。
この縮小の過程の間に、他の思考が生じるとき、
あなたはそれらを追い払います。
それらを払いのけます。
それで、あなたの精神は、
ますます狭く、ますます融通がきかず、
ますます自由でなくなるのです。」
クリシュナムルティ「花のように生きる」より。

以前より、集中はヨーガにマイナスだと申し上げてきました。
全くのビギナーであれば、集中から入るのも仕方がないと思い
私もかつてそのような言葉を使ったことがありましたが
最近は、誤解を招くことの弊害を考えて
集中という言葉を使わないようにしています。

ヨーガスートラの「制感」のところには
「制感とは、諸感覚器官が,それぞれの対象から離れ」とあります。
そもそも集中とは、
感覚器官をそれぞれの対象に結びつける行為であり
ヨーガスートラの説く制感とは対極に位置しています。

五感を研ぎ澄まし、精一杯の集中力を発揮することによって
制感が達成されると考えているようでは
とてもヨーガスートラのサマディの境地には到達できないでしょう。
この極めて初歩的な理解が
後になってとても重要な意味を持つことになります。
ですから「集中」という言葉に囚われない様にされてください。
ヨーガのゴールでは真の自由が得られます。
ですからそのプロセスにおいても
束縛はできるだけない方が好ましいわけです。
荘子の第一章が「逍遥遊」
つまり「心まかせの遊び」という題であることを
あらためて思い出して頂ければ幸いです。