2010年9月17日金曜日

瞑想は世俗からの逃避ではない

「瞑想は世俗からの逃避ではない。
それは孤立的で自己閉鎖的な活動ではなく、
世界とそのあり方を理解することである。

社会は衣食住以外には与えるところ少なく、
それが与える快楽は大きな悲嘆を伴うのが常である。
瞑想はそのような世界を裕然として離れ去ることであり、
人は全的にアウトサイダーでなければならない。
そのときこの世は意味を帯び、
天と地はその本来の美を不断に開示する。
そのとき愛は快楽の影を宿さない。
そしてこの瞑想こそは、
緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追求、
力への渇望などから生まれたものではない、
全ての行為の源泉である。」
「クリシュナムルティの瞑想録」

ヨーガを続けるに従って我が強くなる人をしばしば見かけます。
でも本当は、形が多少上手くなったといっても、それだけのことです。
大した話ではないのです。

ヨーガスートラでは「心の作用の止滅」を説いているわけですから
真にサマディを目指すのであれば、
我執などの余計なものを一つひとつ落としてゆかなければなりません。

瞑想がすすんでゆきますと何かにつけ達観できるようになります。
余程の事でなければ「ま、いいか」で済ましてしまいます。
なんともいい加減な感じがしますが
むしろ、そのくらいが、いい「加減」なのだと思います。

達観とは、辞書によると次のような意味になります。
「細かい事にこだわらず、物事の本質を見通すこと。
また、物事に超然として、悟りの心境に達すること。
広い視野で物事を見ること。全体を見渡すこと。 」(大辞林)

ともあれ荘子の説く「逍遥遊」の世界に近づきたいものです。