2010年10月6日水曜日

真我を観る!-3

「ウパニシャッド」とは
昔から「傍らに坐る」という意味だとされてきましたが、
30年位前から「ウパース」が語源だと主張する学者が増えてきました。
ウパースとは「同一化」という意味です。
アートマンとブラフマンを同一化させるのがウパニシャッドの目的なのだから
意味的にも合致している、ということなのでしょうが、
長年ヨーガを実践している側からすればやや異論があります。
私は、この問題を考える時、
釈迦と摩訶迦葉にまつわる「粘華微笑」という話が参考になると思います。
ある日釈迦はいつもの様に霊鷲山の頂上で説法の座に着きました。
ですが、その日に限って一言も語らず、傍らの華を一輪拈り取り、
沈黙の内に聴衆の前にさし示しました。
弟子達は何のことだか全く意味がわかりませんでしたが、
摩訶迦葉ひとりだけは、静かに微笑みました。
その時釈迦は、
「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。
教下別伝 、不立文字、摩訶迦葉に付嘱す」と言ったとされています。
以心伝心の劇的な伝法が、まさにこの瞬間に起きたわけです。
でもここで考えなければならないのは、
何故摩訶迦葉だけが法を得られたか?です。
釈迦の傍らにはたくさんの弟子達が坐っていました。
でも釈迦の悟り(サマディ)に同一化できたのは、
結局、摩訶迦葉だけだったのです。
ただ「傍らに坐る」だけでは何も起きないし、
傍らに坐るに値する人、つまりグルがいなければ
「同一化」する対象がいないので、やはり何も起きません。
従って、「傍らに坐る」と「同一化」は、
同時に満たされなければならない条件だったのです。
つまりウパニシャッドの瞑想とは、グルの傍らに座り、
さらにグルのまとったサマディの質と同一化するものに他なりません。
そして、それこそがジニャーナ・ヨーガなのです。
道元は名著「正法眼蔵 弁道話」で次のように説いています。
「端坐参禅を正門とせり」「自受用三昧、その標準なり」。
参禅とは師家についてその傍らに座り坐禅を組むことであり、
「自受用三昧」とは受動態(同一化)を本義としています。
この事からわかるように、座禅とは(見性するまでは)
一人で組むものではないのです。
道元はまさしくウパニシャッドと同じスタンスだったといってよいでしょう。
ところで佐保田鶴治博士の著書にもあるように、
グルの指導はマンツーマンを原則としています。
「対個人的に一対一の形でなされるべきもの」(「ヨーガの宗教理念」)。
なぜそうなるのかと言えば、
グルの指導は、弟子の真我の状態をチェックして、
その時々に必要なサマディの質をグル自らがまとい、
それに弟子を同一化させることで霊性の向上を図るからです。
サマディには180以上の階梯がありますので、
それらを目的別に使い分けることになります。
(このように一対一の時はカスタマイズして対応しますが、
もし大勢を相手にする時は、最大公約数的な考え方を採用します。
但しこの場合、全員にわからせるのは難しいので、
ラーマナ・マハーリシのような偉大な聖者でも、
傍らに坐った人のうち数人だけにヨーガ的神秘体験が起こります。)
ところで、禅でも、老師の指導は一対一の対機説法が基本です。
禅には「鑑機三昧」という禅定(サマディ)があります。
これは指導を行なう際に
「あらかじめ相手の機根・能力を観察する為に入る禅定」です。
つまり老師は、
まず鑑機三昧に入り、相手の真我(仏性)の状態を調べ、
それに即した対応を採るわけです。
これはウパニシャッドに於けるグルとほとんど同じやり方だといえます。
自分の真我は、心の作用の止滅後に
アートマンそれ自体の「顧る働き」によって観照できますが、
他人の真我は、「鑑機三昧」というサマディに入らないと観照できません。
つまり自他の「真我を観る」ことが出来て初めて、
顕教ヨーガの指導者になれるわけです。