2010年10月6日水曜日

真我を観る!-1

瞑想というと
何かのイメージを思い浮かべたり(観想)マントラを唱えたり、
集中を繰り返したりと作為的な努力に専念することだと
思っている方が少なくありません。
ですが、それは
ヨーガスートラに於ける「瞑想」とはかけ離れたものです。
そもそも「瞑」とは
瞑目というように「閉じる」「閉ざす」という意味なのです。
ですから瞑想とは、「想」つまり
心の「相(置かれた状態、表れ)」を閉ざすことを意味します。
それは
ヨーガスートラに於ける「心の作用の止滅」
そのものだと言っていいでしょう。
ヨーガスートラは
「心の作用が止滅されてしまった時には
純粋観照者である真我は
自己本来の状態にとどまることになる」
と説明しています。
つまり真我には、
純粋観照者としての働きがあるとうことです。

心の作用が既に止滅しているわけですから
ここでは集中も観想もマントラもありえません。
従ってヨーガスートラの瞑想とは、
自然無為の純粋観照の世界なのです。
さて、この純粋観照者である真我ですが、
一体何を観照するのでしょうか。
真我は無形ですから、
当然「肉眼で見る」という意味ではありません。
結論を言うと、
真我が純粋観照するのは、
まずは真我それ自身なのです。
この「顧(かえりみ)る」という働きは、
アートマンに元々備わっているものです。
「真我は観えるのか?」と、
疑問に思う方もいることでしょう。
ですが、密教ヨーガならいざ知らず
ウパニシャッドの理想を実現する為に作られた顕教ヨーガにおいては
修行者が当然通過すべき「初歩的な関門」なのです。
ですからヨーガの入門書であるヨーガスートラに登場するわけです。
通常、真我は、
アートマンとプルシャの訳語として使われています。
古ウパニシャッドによれば、両者の定義は明らかに異なりますので
もしもこれらを混同していたら、ヨーガの本質は永遠に理解できません。
同じだという人は、
真我を体験(観照)していない、と告白しているようなものです。

アートマンは、プルシャを構成する五つの要素の一つであり
その中心力を以って、他の四要素を統括しています。
これら五つの要素は、古ウパニシャッドによれば
白、赤、黄、緑、青の5色の輝きをもっています。
ですから真我を観ますと
この5色が混合した輝き(色彩)になります。
そして、人それぞれ各要素のバランスが異なる為
真我の輝きに個別性があるのは勿論、また
同じ人でもその時々の状態によって変化するので
いつも同じに観えるというわけではありません。
正確に言うと
「アートマンが、それ自身を含むプルシャを純粋観照する」
ということです。
古ウパニシャッドでは、それを
「鏡のなかに映る像のように自己の中にみられる」と表現しています。
確かに、自分で体験しますと
「全くそのとおりだ」と、その表現の秀逸さに頷けます。
また古ウパニシャッドには、観え方の階梯として
「ぼんやりと」「不明確に」「くっきりと明確に」と三段階記述していますが、
実際には、この「解像度」に加えて
真我の輝きの「大きさ」と「強さ」という階梯も忘れてはなりませんし
さらに言えば、垢染の度合いによって「透明度」も異なります。
ヨーガの瞑想は、とても深遠な世界です。

ヨーガスートラの説く
「心の作用の止滅、純粋観照、真我独存」は
瞑想の入り口に過ぎません。
自分の真我が観えてから、真の瞑想が始まるのです。