2010年11月18日木曜日

顕教ヨーガの瞑想

巷間、瞑想法といわれるものが数多くあります。
伝統的なもの、適当に自分で開発したものなど、それこそ雑多ですが
いずれにしても
小手先の所作や作為が多ければ多いほど
顕教ヨーガの本質からかけ離れたものであることを知るべきでしょう。

形式に囚われたり、観想遊戯に陥ってしまっては
サマディなど夢のまた夢です。

真我が無形である以上
サマディへのアプローチも無形でなければなりません。

作為にまみれた瞑想法では
存在の深みに触れることは出来ないのです。

単に社会で役立つ能力をつけるためなら
複雑な瞑想法や呼吸法でも役立つことがあるでしょう。
その可能性は自分でも確認していますので否定はしません。

でもサマディは、心の作用が止滅した先にあるのです。
心や身体を懸命に動かすことによってサマディに至れると考えるようでは
永遠にサマディには手が届かないでしょう。

ヨーガスートラやウパニシャッドの各段階は
単なるイメージの世界ではありません。
ヨーガがヨーガであるために、
今その真実が問われるべきだと思います