2010年11月28日日曜日

ハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガ

サッド・グルは個々の状態に応じて
臨機応変に多様なアプローチを採ることができます。
そのサッド・グルの役割を密教的な技術によって代用しようとするならば
相当高度で複雑なメニューが必要とされるでしょう。

でも、どんなに密教ヨーガの技術を突き詰めていったとしても
そこには自ずと限界があります。
なぜなら、密教ヨーガと顕教ヨーガの質的な違いがあるからです。

ですから、密教ヨーガにサッド・グルの変わりなど、とても勤まりません。
せいぜい顕教ヨーガの準備段階として有効なだけです。

それでも、何もしないよりはいいだろうということで
数百年にわたり、密教ヨーガの偉大な先人たちは
ありとあらゆる角度から、開発と検証を繰り返しつつ
「顕教ヨーガの準備段階」としての役割を果たそうとしてきました。

そしてその答えが
今日に伝わる密教ヨーガの技術体系だといってよいでしょう。

ハタ・ヨーガ・プラディーピガーの冒頭に於いて
著者であるスヴァートマーラーマは、
自信と誇りを持って次のように語っています。

「「ハタ・ヨーガは、高遠なラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって
素晴らしい階段に相当する。」(1-1)

しかしながら、その先人たちの努力は新たな問題を引き起こしました。
それは本来手段としてあるべきものが目的と化してしまったことで
人々に誤解を与え、彼らを迷路に誘ってしまったのです。
この思い込みは、実に長い年月にわたっているため
解除するのは容易ではありません。

そこであえて困難を承知の上で、
私はこの一連の流れのスタートライン、つまり顕教ヨーガに立ち還り
ヨーガスートラに直接向かい合うことに致しました。

「瞑想を行うために意識的にある態度、姿勢をとれば
それは精神の慰みもの、玩具になってしまう。(中略)

光明の瞬間には意識はしぼみ去っている。

それゆえ光明を経験しようとする意識的努力も、
光明についての記憶も過去の出来事についての言葉を残すだけであり
しかも言葉は決して事実起こったことと同一ではない。

時間を超越した啓示の瞬間には、窮極なるものは直接現れる。

しかし窮極なるものは
いかなる表象(シンボル)も持たず人格でも神格でもない。」
『クリシュナムルティの瞑想録』P78 クリシュナムルティ著 平河出版

密教ヨーガは、確かに数多くの技術を提供しています。
その意味では、大変有意義なものであり、素晴らしいというべきでしょう。

ですが、ハタ・ヨーガ・プラディーピガーが著しているように
本来ラージャ・ヨーガへの準備段階でありながら
現実には、それを達成するのに数十年を要するような状況になっています。

でもそれではヨーガの本命とも言われる凝念(ダーラナ)以降の修行に
人生の晩年のごく僅かな時間しか充てられません。

なにか本末転倒しているような印象を受けるのは私だけでしょうか。